大久保利通と、終焉の地の近くにあるテックジム、そこで学ぶ私

まとめ

大久保利通の石碑

(画像はイメージです。写真を撮り忘れています。2024/1/2‗改訂)永田町にあるテックジム本社でトレーニングをしていた時に娘を遊ばせるために近辺を散策していた時の話です。近くには馴染みにある上智大学があって、散策をしていました。そこで偶然大きな石碑を見たのです。私が見た石碑の中では最大級のサイズで2mは楽々超えていると思います。

そこが大久保公の人生最後の場所でした。いわゆる「紀尾井坂の変」で大久保利通は暗殺されたのです。

大久保利通といえば西郷隆盛、木戸孝允と並んで維新の三傑と呼ばれている英雄です。朋友である西郷の反逆を止められず、自身も暗殺されるという最後が非常に悲劇的なのですが、大久保利通の残した足跡は今の日本にとってとても大事な遺産となっています。

大久保利通の生きた時代

大久保利通が活躍していた時代の日本は列強諸国が日本との関係を模索していた時代でした。そんな大変な時代に大久保利通は

初代内務卿で、内閣制度発足前の日本国政府で太政官を務めます。今で言えば実質的な(事実上の)内閣総理大臣です。時代はまさにカオスです。江戸幕府終了後も日本国内で幾つも内戦があり、函館で賊軍が戦いを終わらせていますが、言論メディア(文壇)が国民感情を形成し議論する場が熟成されてたとは言えません。

新しい日本で新しい考えが次々と育ち、新しい制度が次々と出来ていった時代でした。そんな時代を大久保利通は生きたのです。

大久保利通の残した人脈

大久保利通は政治家として多くの更新を育て、多くの朋友と政治について議論して政策を育んでいきました。そして家族を大事にしてきたのです。

ちなみに大久保公が亡くなった際には財産より圧倒的に借金の方が多かったのですが、当時の政府が配慮して大久保公の遺族が十分に暮らしていける配慮をしていたようです。そしてその曾孫が(吉田茂が)日本の総理大臣を務めます。

そして、更に後には吉田茂の孫の麻生太郎が首相を務めます。麻生太郎が現職の国会議員であることを思い返すと、長きにわたる大久保利通の業績を更に感じる筈です。

そして人繋がりを考える

早稲田大学創始者の大隈さんも大久保利通の死後色々と思い出していたそうです。髪型の事、趣味の囲碁の事、家族思いだった事、そんな諸々が伊藤博文などからも語り継がれ、政治の中枢に関わる人々の中には色々な形で大久保さんの凄さが伝わっていきました。

そして、2023年の秋に娘を連れた私が慰霊碑を偶然見つけ本稿を起こしました。私もまた多くの人に出会い成長する機会を頂いています。これからも良い人、良い機会に出会いたいですね。

〆最後に〆

以上、間違い・ご意見は
次のアドレスまでお願いします。
最近は全て返信出来てませんが
適時、返信して改定をします。

nowkouji226@gmail.com

全体の纏め記事へ】

雑記の纏め記事に戻る

Pythonをテックジムで学ぼう

Python学習での諸情報

コメント

タイトルとURLをコピーしました