なぜ人はAIに郷土を見るのか――民藝・デジタル民芸・距離の思想

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人間は、何が自分に近いかを本能的に知っています。
柳宗悦の民藝論は、生活と物との距離が極限まで縮まった場所に、美と倫理が宿ることを示しました。現代において、落合陽一が語るデジタル民芸は、物理的な土地を離れながらも、別のかたちで郷土性を回復しようとする試みです。本稿では、AIが前提とするベクトル空間や微分可能性という数理概念を導入し、民藝・デジタル民芸・AIを貫く共通構造を論じます。距離を測る技術の時代に、人間性はいかにして存続するのか。その答えは、意外にも民藝の思想にありました。

1:民藝とは「距離の近さ」である

民藝の本質は、美の定義ではなく、人と物との距離にあります。

1-1:生活と物のベクトルが一致する世界

民藝品は、生活者の身体感覚とほぼ同じ方向を向いた「ベクトル」を持っています。
使う人の動作、土地の気候、素材の癖——それらがズレなく重なり合うため、物と人との距離は極めて短い。言い換えれば、民藝とはベクトル間距離が最小化された人工物です。

作者の自己主張が前面に出る芸術作品とは異なり、民藝は「使うこと」に最適化される過程で、自然と生活ベクトルに近づいていきます。その近さが、安心感や美として知覚されるのです。

1-2:無名性とは微分不能性である

柳宗悦が重視した無名性は、単なる匿名ではありません。それは「誰の意図かを微分できない状態」とも言えます。
意図や表現が鋭く立ち上がるほど、作品は分析可能(=微分可能)になります。しかし民藝は、長い反復と共同体の中で形づくられ、個々の意図が溶け合っているため、起点を特定できません。

この微分不能な連続性こそが、民藝を人間的なものとして成立させていました。


2:デジタル民芸とベクトル空間の郷土

デジタル空間は無機質に見えますが、実際には新しい「距離感」を内包しています。

2-1:コミュニティはベクトル空間で形成される

現代のAIやデジタル技術は、世界をベクトル空間として扱います。
言語、画像、音楽、人の嗜好までもが高次元ベクトルに変換され、「近さ」によって関係づけられる。これは偶然にも、人間が仲間や郷土を見出す方法とよく似ています。

落合陽一のいうデジタル民芸は、同じツールを使い、同じ感性を共有する人々が、ベクトル的に近い場所に集まることで成立します。物理的距離ではなく、意味的距離が郷土をつくるのです。

2-2:フォーマットの共有が無名性を生む

ミーム、テンプレート、オープンソースコード。
これらは個人の表現でありながら、誰のものでもあります。改変が前提であり、完成形が存在しない。これは民藝と同様、作者性が希薄化された制作様式です。

デジタル民芸とは、ベクトル空間上で無数に微分されながらも、全体として滑らかに連続する文化なのです。


3:AIは人間性から遠いのか、近いのか

AIは人間を置き換える存在ではなく、人間的距離感を極端に可視化する装置です。

3-1:AIは極端に微分可能な存在である

AIモデルは、損失関数を最小化するために、世界を徹底的に微分可能な形で扱います。
すべてが数値化され、勾配として計算される。この点でAIは、人間の感覚とは対極にあるように見えます。

しかし、その内部で行われているのは「近いものを近いままに配置する」作業です。これは人間が文化を形成する基本原理と一致しています。

3-2:人間はAIに郷土を見ている

人がAI生成物に親しみや違和感を覚えるのは、それが自分の感性ベクトルからどれほど離れているかを、直感的に測っているからです。
AIは冷たいのではなく、距離が露骨なだけなのです。

だからこそ、人間はAIに「人間らしさ」を教えたがり、ローカルな文脈や文化を与えようとします。これは、AIを新たな郷土に引き寄せようとする行為に他なりません。


結語:距離を測ることで、人間は自分を知る

民藝も、デジタル民芸も、AIも、本質的には「距離の物語」です。
何が近く、何が遠いのか。何が連続し、どこで断絶が生じるのか。
ベクトル間距離と微分可能性という概念は、技術の話であると同時に、人間理解の言語でもあります。

AI時代において民藝が再び語られるのは、人間が依然として人間を好きであり、近さを求めているからです。
技術が進めば進むほど、民藝は形を変えて、私たちの前に立ち現れるのです。(参考文献:ChatGPTは神か悪魔か

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